
平安時代に天台宗の寺として開山された
日輪寺は、鎌倉時代に曹洞宗に改められ、以後、菊池武時、加藤清正、細川忠利ら歴代の領主より手厚く庇護された古刹(こさつ)です。
3月下旬から約200本の桜、4月中旬からは3万5千株のツツジが咲き誇り、一帯は赤や白、ピンク色に染まります(品種はクルメ、ヨドガワ、サツキ)。「日輪寺公園つつじ祭り」も開かれ、花見客・観光客で大変賑わいます。

お寺に隣接して、住職自らが山で採った山菜や胡麻豆腐を使った本格的な精進料理を味わえるお食事処『とき処 南無』(ときどころなーむ)があります。※完全予約制
建物やお庭の雰囲気がとてもいいです★
『なで仏様』に続くこの庭へは有料。この日はまだ14時半だったんですが、もう閉まってたΣ(´Д`lll)
予約のない平日は閉まってるのかも知れません。

駐車場から公園墓地をてくてく散策。
熊本県指定重要文化財『湯町橋』は文化11年(1814年)築造。
保存のため、わざわざココに移築したそうです。

公園墓地の高台、お寺の裏手あたりに鎮座する、高さ30m/幅10mの巨大大仏『おびんずる様』。
中に部屋があり、『なで仏』様はそこにいらっしゃるらしい。
この写真は柵越しに撮ったもので、もちろん有料の敷地内には無断で入れません。
行った人のブログを見てみたら、なんと金ピカでした(^_^ゞ
ちなみに、石体観音三十三基も有料の敷地内にあります。

ちょっと丘に寄りかかってるような『おびんずる様』の後方に続く山道?を見たとき、ふと気づいた。
「あれ? ここ来た事あるなぁ」
むか〜しむかし、小学生の頃YMCAのキャンプクラブに入っていて、毎月レクリエーションがあり、その頃にここをトレッキングしたような…。
だったらあんな目立つ『おびんずる様』を覚えてるハズだけど、昭和63年築だそうなのでその頃にはまだなかった。

金比羅堂が当時の記憶とピッタリ一致。いや〜30年ぶり(爆)ですぅ!
それにしても、どこからどこまで歩くコースだったんだろう???
地図を見るとかなりの距離があるけど…あの頃は体力あったなぁ(笑)

感慨にふけりつつ駐車場に戻ると… ん? なんでここに赤穂浪士の絵が…?
と思ったら、ここに赤穂浪士の遺髪が安置されていたのです!
そう言えば大内内蔵助が叩いていたのは山鹿流陣太鼓、遺髪が山鹿に眠ってるという話を聞いたことがあったけど、ここだったのね!Σ(´Д`lll)
※『忠臣蔵 山鹿流陣太鼓』で検索したら、
忠臣蔵関係を研究してる方のウェブサイトに辿り着きました。
それによると、討ち入りの際に山鹿流陣太鼓を打ち鳴らしたというのはフィクションらしいです(^_^ゞ

という訳で、いったん門を出て仕切り直しです(^_^ゞ
こちらの楼門は二階建てになっていて、上部には梵鐘があります。

梵鐘は天正13年(1358年)作、山鹿市指定文化財になっています。
肥後三大銘鐘と謳われ、高さ115cm、直径70cmで、外面の銘文には銅銭百貫文で造られたことや、作成に関わった人々の名前などが記されています。

楼門を潜ってお寺側から振り返った眺め。
このあと紹介しますが、右側が遺髪塔、左側がラカンマキ。

幕府の沙汰が決まるまで細川家の家老預かりになった、大石内蔵助良雄をはじめとする十七士の遺髪を納めた遺髪塔。
なぜこちらに遺髪があるかというと、檀家の堀内傅右衛門(でんえもん)という武士が、討ち入り後の四十七士のうち十六名の世話をしていたそうで、切腹後、遺髪だけでもいただきたいと申し出て、その遺髪をこの日輪寺に持ち帰り供養したらしいです。
義士の命日である2月4日には『義士まつり』が開催されます。
(
赤穂の大石神社の『義士まつり』を見に行った日のブログはこちら)
案内板によると、この遺髪塔は最初から建っていたのではなく、傅右衛門が日輪寺の境内に建立していたものが年月を経て埋もれ、200年後、蔓草の茂みから摩耗しかけた石碑が発見されたんだそうです。
そして明治45年の2月4日、新たに石碑を建て、昭和44年に屋根をかけたりして今に至っています。

遺髪塔に相対する位置に、
菊池武時公(1292〜1333)が日輪寺を再興する時にお手植えになったといわれているラカンマキ(熊本県HP『
日輪寺のラカンマキ』)がそびえています。
樹齢は650年余、根周り4m、樹高25m。


そのほかラカンマキのすぐ傍に佇む、菊池武時公の息女『了心素覚尼』のお墓、五輪塔、松尾芭蕉碑、古墳時代前期の竜王山古墳など史跡がたくさんあります。
撮影:Nikon D60
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posted by しう@SOTO at 23:47
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熊本