
(『別雷神社』の近くです)
菊池家第十九代、菊池(豊田)兼朝公のお墓とされていますが、芦北町の八幡兼丸にある千寿庵(リンク先は個人サイト『菊池玲瓏』より)も兼朝の墓ではないかといわれているそうです。表面がぼろぼろになった五輪塔がいくつか残っています。


以下、説明板より↓
史書によりますと、岡田村字宅地の墓地に無銘の古塔三基あり、その中の一基は兼朝の墓であると書かれています。
兼朝は弘和3年(1313)、武朝の長子として生まれ、24歳で菊池家十八代を継ぎました。
応永26年(1419)6月、南蛮軍侵入の際は之を撃退し、翌27年には河尻城を攻め、河尻実賜の反乱を鎮圧しています。
文安元年(1441)3月8日、63歳で没、法名を旭山元朝大居士、また、透関道徹居士ともいいます。
岡田正善寺(開山・金善和尚、建立・兼朝)には釈迦如来像と兼朝の位牌および大きな掛け軸(涅槃図)が残っています。
左側のお墓は、城氏代々のものかと思われます。
城氏(藤原姓菊池一門)- Wikipediaの解説
菊池一族に関して、菊池家十三代惣領・菊池次郎武重公の末裔の方のサイト『忠誠の菊池一族』に詳しく書かれています。
それにしても、菊池家の当主の墓が不正確とは… 寂しく感じますね。
撮影:Nicon D60
SOTO Home Page┃コメントはこちらの掲示板へ
