2017年07月12日

古丹別神社と三毛別ヒグマ事件復元地

7/10、羽幌のKさんに案内していただいた続きです。

古丹別神社(1) 古丹別神社(2)

羽幌町のお隣、苫前町にある【古丹別(こたんべつ)神社】(リンク先は「北海道神社庁」)へ。
写真:右=古丹別開基百年記念碑

実は7月12日に開催される例大祭を見るために予め下見をしておこうということで連れて来ていただいたのです。
キャンピングカーを停める場所まで確保していただき、前日は道の駅【風Wとままえ】に停泊して準備万端だったのですが・・・濃霧。そして雨、だけならまだしも強風。
こんな天気でも祭りを開催したのでしょうが・・・、根性のないわたしは諦めてしまいました。すみませんm(_ _;)m

ふだんは無人の神社ですが例祭には神職さんが来られるから御朱印をいただけたらなぁと思っていたのですが、きっと忙しくてそれどころではないでしょうね。
ちなみに羽幌神社の宮司さんが掛け持ちなんだそうです! 例大祭が連続するなんて大変すぎる(´Д`;)

古丹別神社(3) 古丹別神社(4)

写真:右=狛犬さんの足下に、大黒様と恵比寿様がいました!

ご祭神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と、保食神(うけもちのかみ)。

保食神は、日本神話(『古事記』には記載なし、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ記載あり)に登場する神。神話での記述内容から、女神と考えられています。

『古事記』では同様の説話がスサノオとオオゲツヒメの話となっているため、保食神はオオゲツヒメと同一神とされることもあります。
また、同じ食物神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)とも同一視され、宇迦之御魂神に代わって稲荷神社に祀られていることも。

神名のウケは豊受大神の「ウケ」、宇迦之御魂神の「ウカ」と同源で、食物を意味します。
保食神 - Wikipediaより)

古丹別神社(5) 古丹別神社(6)

昭和12年(1937)に奉納された狛犬。奉納した方々の名前が「イロハ順」で刻まれていました。
唐獅子模様がはっきり残ってます。ちょっぴりブタ鼻で愛嬌のある表情ですね。狛犬も造りてによって様々で面白いです。

古丹別神社(7) 古丹別神社(8)

拝殿は閉まっていましたが、左側に鈴と賽銭投入口があり、そこで参拝。何だか玄関先みたい(笑)
A5版ほどの額には由緒書きが収められていました。

↓由緒書きより↓
明治29年(1896)、現 古丹別地域に三重県から移住した伊曽島団体25戸と、単独で10戸(単独組という)の開拓入植があったが、同年9月、単独組によって天照大御神が東北山地(通称:上牧山)に祀られた。
伊曽島団体も郷里の八起神社の祭神と稲荷神社を伊藤軍治郎の土地に奉祀した。
大正2年(1913)、両社は合祀され、社殿は旧 競馬場付近→藤田重太郎裏地→営林署横地へと移転を重ね、現在地へ落ち着いた。
人口の増加とともに神職による祭式を求める者も増え、昭和43年(1968)、宗教法人の手続きを済ませた。

北海道内の神社は、入植・開拓の歴史そのものとも言えます。


三毛別羆事件復元地(1) 三毛別羆事件復元地(2)

そしてご存知の方も多いはず、三毛別(さんけべつ)羆事件の復元地へ。古丹別の町なかから20kmほどでしょうか。
苫前町HPによると「開拓の悲話を通して不屈の開拓精神と先人の偉業を後世に伝えようと三渓地区住民の強い熱意で復元された」とあります。

この「あんない図」にはトイレが書いてありますが、現在はなくなっています。
ここで道は行き止まり。冬の間は雪に閉ざされているでしょうから、管理(保存)も大変なのではないでしょうか。

三毛別羆事件復元地(3) 三毛別羆事件復元地(4)

写真:左=羆事件のあらまし
写真:右=羆事件現地碑

三毛別羆事件とは、大正4年(1915)12月9日から12月14日にかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別(現:苫前町三渓)六線沢(ろくせんさわ)で発生した、クマの獣害としてはもっとも甚大な被害を出した事件。
エゾヒグマが数度にわたり民家を襲い、開拓民7名が死亡、3名が重傷を負った。
事件を受けて討伐隊が組織され、問題の熊が射殺されたことで事態は終息した。
六線沢熊害事件、苫前羆事件、苫前三毛別事件とも呼ばれる。
三毛別羆事件 - Wikipediaより)

事件後、集落の方々は次々とこの地を去り、今はこの場所だけが「復元地」として遺されています。

三毛別羆事件復元地(5) 三毛別羆事件復元地(6)

「あんない図」に描かれている「粉つき小屋」は壊れているし、「開拓当時の倒木」も、草に覆われているのか土に還ったのか、確認できませんでした。
小川も、手掘りかな? くらいのもので時の流れを感じます。おそらく、この川の水が飲み水であり、炊事や洗濯をしていたのでしょうから、当時はもうちょっと広くて深かったでしょうね。

先ほどの古丹別神社にあった古丹別開基百年記念碑の碑文の一節です↓

当時は鬱蒼たる樹林、丈余の熊笹の繁茂、熊狐咆哮する原野に、笹葦の小屋を建て、粟(あわ)や黍(きび)の粗食に耐えながら、巨木を倒し、未開の地を切り拓いた入植者の苦労は筆舌に尽くし難いものがあったと思われる。
ここ古丹別は、古丹別川と三毛別川の合流地点で、その地の利と地味肥沃なことから、周辺農家が年々増え、さらに昭和6年の鉄道開通によって商工業も進展し、市街地形成が進み、産業、経済の中心地として古丹別市街は急速な発展を見るに至った。
爾来(じらい)、ここに百年の歳月を経た今、我々がこの地に豊かな恵みを受け生活できる幸せは、先人の築いた尊い苦労の賜物であり、ここに偉大なる足跡を偲びつつ深甚なる感謝の意を表し、この碑を建立する。

今日は天気もよくて野鳥のさえずりがあちこちから聞こえ、森林浴気分で散策できそうな雰囲気で、それがいっそうもの哀しさを浮き立たせるようです。

三毛別羆事件復元地(7) 三毛別羆事件復元地(8)

復元された家屋。土間です。本当に、こんな家だったの? これでは冬はいくら火を焚いたって寒くて寝られそうにない。
壁だって、大人が全力で体当たりすれば壊れそう。まして羆ならひとたまりもない。
当然、電気も通っていません。
現代でも、こんな山奥に住むのは恐ろしいと思うのに・・・。

(三毛別羆事件で画像検索すると必ず出てくる、羆が屋内に襲撃してきた瞬間のジオラマは【苫前町郷土資料館】にあります)

三毛別羆事件復元地(9)

この事件の羆は推定7〜8歳のオスで、体長2.7m、体重340kgもあったそう。
わたしの身長167cmに対して、この大きさ。え、これ盛ってるよね? 嘘でしょ?

前脚の手のひら幅20cm、後脚は30cmもあったらしい。金毛を交えた黒褐色、胸間から背中にかけて「袈裟懸け」といわれる弓状の白斑があり、体に比べ頭部が異様に大きいという特徴があったそうです。
冬眠に失敗した「穴持たず」で、その巨体ゆえに冬ごもりできそうな穴を見つけられなかったのではないかとも言われています。

ここに来る途中、三毛別川に架かる橋に「射止橋(うちどめはし)」と名がついていたので、ここで仕留められたのかと思っていたけど、銃弾が当たったものの討ち損じた場所でした。

事件当事者のひとり、生き残った大川春義という方(事件当時の三毛別区長の大川与三吉の息子)が犠牲者たちの仇を討つことを誓い猟師になり、昭和52年(1977)、ついに100頭を達成。
その後は銃を手にせず、三渓神社に「羆害慰霊碑」を自費建立し、犠牲者並びに自らが手にかけた羆達の鎮魂につとめました。

1985年12月9日、三毛別羆事件の70回忌の法要が行なわれ、大川氏は町立三渓小学校(のちに廃校)の講演の壇上に立ち、「えー、みなさん……」と話し始めると同時に倒れ、同日に死去。
大川氏は酒も煙草もやらず、当日も朝から三平汁を3杯平らげるなど健康そのものだったのに、事件同日に急死したことに周囲の人々は因縁を感じずにはいられなかったといいます。
大川春義 - Wikipediaより)

この日は午前中しか時間がとれなかったので三渓神社へは参拝できず。またの機会に資料館も含めて再訪したいと思います。


個人の方のホームページですが、図解もありとても詳しくまとめてありますので、詳しく知りたい方はこちらをお薦めします。
北海道苫前郡羆害事件 - 菜根道場戦国房

撮影:Nikon COOLPIX P900



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タグ:歴史 神社
posted by しう@SOTO at 15:18 | TrackBack(0) | 北海道
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