2017年05月10日

菊池〜山鹿のキリシタン墓と山鹿城跡

1ヶ月くらい経ってしまいました。まちかど資料館館長さん案内の史跡めぐりの続きです(まだあったんかい!笑)

菊池市(旭志、泗水、七城)〜山鹿市(鹿本)には隠れキリシタンの墓が点在しており、アルメイダ神父が通った道ということで【アルメイダ街道(キリシタンロード)】とも呼ばれています。
ルイス・デ・アルメイダ - Wikipedia

山鹿の史跡(マリア観音?) 山鹿の史跡(マリア観音?)

鹿本町の袋田地区、民家もごくわずかの集落に、ぽつんと小さなお堂が2つ。子育て観音として信仰されている、赤ちゃんにお乳を与えている観音様が【マリア観音】とされています。
陶器でできていて、正面からは分からないですが後頭部に十字が刻まれています。

山鹿の史跡(小西行長供養碑) 山鹿の史跡(小西行長供養碑)

おとなりの富田地区には、キリシタン大名として有名な小西行長の供養塔があります。
大きな自然石の正面には「慶長五年 西岳院殿行長即得大居士 十月六日」、台石にはアロエが刻まれています。
なぜアロエ? と調べてみたら、イエスキリストを埋葬する際に没薬とアロエを混ぜ合わせたものと香料を一緒に亜麻布で巻いた、とされているからのようです。

小西行長は関ヶ原の合戦に敗れ、京都の六条河原で処刑されてしまいます。
イエズス会側の史料によると、行長の遺体は教会に引き取られた後で改めて秘蹟を受けてカトリック式で葬れたそうですが、どこに埋葬されたのかはわかっていません。

宇土城開城と共に、家臣たちは行長の弟・隼人の遺児である忠右衛門を伴ってこに隠れ住み、姓も小材(こざい)と改めたと伝えられています。

この日は写経が供えられていて、名前が「小材」だったので驚きました。子孫の方でしょうか。
キリシタンだったのに写経というのもおかしな話ですが。

小西行長 - Wikipedia

山鹿の史跡(鹿本市民センター) 山鹿の史跡(宗不早生家)

写真:左=次なるキリシタン墓の目印はこちらの【鹿本市民センターひだまり公民館】。
※鹿本市は合併し山鹿市鹿本町になりました。

写真:右=近くには、漂泊の歌人・宗 不旱(そう ふかん)の生家が残っています。
宗不旱 - Wikipedia

山鹿の史跡(キリシタン墓) 山鹿の史跡(キリシタン墓)

写真:左=小柳地区にあったキリシタン墓4基を、ここに移築してあります。案内してもらわなかったら、探し当てられないような入り組んだ場所にありました。ここしか場所がなかったのかしら。

写真:右=ちょっと移動して大宮神社の近く、小学校前の墓地。阿蘇品家の墓域の左側に、十字架を刻んだ碑六基、裏側に八基の立側墓碑があります。

これら以外にも、よ〜く見ると十字が彫られている墓が「こんなところに?」という山中でも見つかったりします。
興味のある方は是非、以下のサイトや書籍も読まれてみてください。

*カトリック山鹿教会のブログ(2008年09月09日)
菊池市・山鹿市に残されたキリシタンの足跡
菊池市・山鹿市に残されたキリシタンの足跡・2

南蛮伴天連の道(森 禮子/著)】
いつもお世話になっているK館長さんや、カトリック菊池教会の神父さんも登場します( ´艸`)

山鹿城跡(2) 山鹿城跡(1)

「山鹿に山鹿城があったって知ってる?」、知りませんでした!Σ(°ロ°;)
【さくら湯】の南側、小高い丘のようになっている住宅街の小径を歩いて登って行きます。住宅街といいますか、スナックとかが建ち並ぶ歓楽街っぽいです。今はすっかり寂れていますけど昭和の時代は賑わったんでしょうね。

山鹿城が健在だった時代は、この丘全体が城内だっただろうと思うと、ちょっと複雑。

山鹿城跡(4) 山鹿城跡(3)

写真:左=城趾に建つ清滝神社 右=案内板

山鹿城は、湯町城/清滝城/上市城ともいい、菊池家の祖、菊池則隆の次男・西郷太郎政隆より出た山鹿氏代々の居城でした。

城地は上市一帯を占め、南は清滝口、西は像成寺(ぞうじょうじ)口、東は菊池口と三ヶ所の口があり、この写真の場所が本丸跡といわれています。
築城時期は不明ですが、正平6年(1351)に懐良親王と敵対していた記録があり、南北朝時代には北朝に属していたらしい。なんですと、けしからん!(懐良親王ふぁん)

以下、案内板より↓
天正15年(1587)、城主が山鹿彦次郎重安のとき、伯父の菊池城主・隈部親永(くまべ ちかなが)が所領検地のことで国主・佐々成政(さっさ なりまさ)に一揆を起こし、肥後国衆一揆に発展しました。
重安は隈部親安と城村城に籠り、戦いに加わりました。成政の軍とは互角に戦いましたが、豊臣秀吉の大軍に敗れ、翌16年5月、小倉において秀吉の命により切腹させられました。
この地は山鹿氏が築城する前は像成寺という寺地で、惣門の地蔵尊は今も火除け地蔵として祀られています。

城村城に篭城した天正15年(1587)、またはその翌年に廃城。
−−−と、【山鹿城 (肥後国) - Wikipedia】にもここまでしか記述無し。
それから400年以上もの間、どういう変遷をたどってこうなったのか。
清滝神社の創建も不明だそうです。

撮影:Nikon COOLPIX P900/スマホカメラ(Xperia Z SO-02E)※魚眼レンズ着用



*関連する過去ブログ記事*
・2011年01月13日【一ツ目神社と一ツ目水源
・2011年01月14日【日輪寺と赤穂浪士の遺髪塔
・2012年02月20日【隈部氏館跡
・2014年01月23日【山鹿市・生目神社
・2014年01月29日【数億年の歴史を刻むさざれ石・不動岩(前編)
・2014年02月02日【数億年の歴史を刻むさざれ石・不動岩(後編)
・2014年04月08日【岳間(たけま)渓谷・湯の水公園
・2016年01月19日【山鹿温泉 元湯さくら湯
・2016年02月29日【岳間の冷や水
・2016年08月09日【涼を求めて岳間渓谷
・2016年11月07日【国指定史跡・隈部氏館跡
・2017年03月09日【菊池川流域の史跡・古墳めぐり
・2017年04月03日【菊鹿町・切通しの石仏群
・2017年04月08日【熊本県内装飾古墳 春の一斉公開
・2017年04月10日【忘れられた信仰の遺跡・涅槃岩


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posted by しう@SOTO at 22:31 | TrackBack(0) | 熊本
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