

鏡ヶ池の由来は平安時代、醍醐天皇の孫姫・小松女院が、慕っていた清少納言の兄・清原正高公に再会できるよう、この池に鏡を沈めお祈りしたという言い伝えからきています。
以下、説明板より↓
「鏡ヶ池伝説」(小国郷史より抜粋)
都が奈良から京都へ移った平安時代の中期。(紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」が書かれた時代)
醍醐天皇の孫姫・小松女院は、美男で横笛の妙手といわれる清少納言の兄・清原正高に密かに心を寄せていました。二人はいつしか心を通わせるようになりますが、帝(醍醐天皇)の怒りをうけることとなり、正高は豊後国(大分県)、小松女院は因幡の国(鳥取県)へと引き離されます。
月日は過ぎ、正高を恋い慕う小松女院は、とうとう豊後国へ正高を探しに出かける決意を固めるのでした。
侍女11人を従えて因幡を発し、はるばる山路海路を越え豊後に上陸、流浪漂泊の末、久住から小国の地に降り立った一行は、祠の下から泉が湧いている、この池の近くの民家に宿をとりました。小松女院は、正高に恋い慕う己の姿を映し出す鏡を身代わりとして神仏に捧げ、鏡をこの池に投げ入れました。切なる女院の心を察した侍女11人も各々鏡を投じて再会できるよう祈りました。
そののち村人たちは、この池を「鏡ヶ池」と呼ぶようになりました。
一行が次の下城の民家に泊まったとき、随行の乳母が力つきて亡くなりました。村人たちは墓じるしに銀杏の木を植えました。現在、天然記念物に指定されている下城の大銀杏です。
その後の足取りは山を越え玖珠の地で正高に妻子のあることを知り、遂げられぬ悲恋の情に耐えられず、名もいう優しき三日月滝(繊月滝同)に果てました。


現在でも、遠く離れた恋人に再会できることを願って、この池に賽銭を投げる風習?があるそうです。
また、ネットで「鏡ヶ池伝説」を検索していたら、小松女院たちが入水して果てたことを後に知った正高公は三日月滝へ亡がらを引き上げに行って、手厚く葬ったという記述がありました。
池はみずいろに澄んでうつくしく、説明板を読まなければそんな悲恋の伝説があるとは思えないほどキラキラと輝いていました。
単に水場に賽銭を投げるというだけではない思いが、ここにはあったのですね。


そしてもうひとつ、恵比寿様にまつわる伝説もありました。
小国両神社に掲げてあった「両神社と富くじ」の説明板と内容が同じで、こちらはそこに恵比寿様を足しただけのようです。
【鏡ヶ池の恵比寿様】説明板より抜粋↓
室町時代になると両神社門前には市が立つようになり、細川公肥後入国後は社会の安定とともに町ができ商家も並んだ。商家では早くから恵比寿様を「福の神」として信仰し、江戸時代中頃、高札場(前肥後銀行前)横に大きな恵比寿様がお祭りされた。
商家の中に湊屋橋本順左衛門がいた。順左衛門は毎朝けやき水源で身体を清め、水神様に自然の恵みを感謝し、両神社に天下の太平と商売繁盛をお祈りしていた。
順左衛門は才覚・算用を旨として商売に励み、夕刻になると、その日の商売をこの恵比寿様に報告して一日を終えた。
ある朝方、けやき水源に舟の入る夢を見て吉兆を感じ、そのころ両神社で始められていた富くじを買い「一番くじ」を当てた。順左衛門は社会への恩返しとしてけやき水源や横町坂を石畳にし、宮原への水害を防ぐため石の堤防を作った。また、再度水源の夢にて津江の鯛生や鹿児島の菱刈に金鉱を探しあてた。
明治24年12月28日、餅つきの残火から宮原の大半を焼いた大火災で湊屋も焼けた。そのとき、大人でも持てないと言われた湊屋の大金塊は消えていた。「蔵跡を掘ってみなさい」の遺言は今も生き続けている。
撮影:Nikon COOLPIX P900
*小国町&南小国町に関連する過去ブログ記事
・2012年04月06日【杖立温泉の鯉のぼり】
・2014年01月07日【阿蘇のストーンサークル? 押戸ノ石 石群】
・2015年04月17日【鉾納社(宝来吉見神社)】
・2016年02月20日【巨木を訪ねて〜南小国町・湯田天神宮の榧】
・2016年08月12日【下城公孫樹と遊水峡】←下城公孫樹=小松女院の乳母の墓じるし
・2016年09月09日【裏見の滝・鍋ヶ滝】
・2016年09月10日【福運三社めぐり・小国両神社】
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