2016年02月04日

松江城(八代城)跡と八代宮

いつものごとく、おとーさんと「天気がいいからどっか行く?」と行き当たりばったりで八代までドライブしてきました。特に目的がある訳でもなく「行けば何かあるだろう」くらいな感じで(笑)

八代城(お堀) 八代城(お堀)

カーナビを見たら【八代城跡】を発見したので、ちょっと寄って見ることに。おとーさんは「石垣しかない」ということは知ってたようですが・・・。

【八代城跡】
江戸時代初期に球磨川河口の松江に幕府の許可を得て建築されたことから松江城(現:八代城趾)とも言う。
同じく八代城とも呼ばれた南北朝時代の古麓城と安土桃山時代の麦島城の三つの城跡を併せて、平成26年(2014)に「八代城跡群(やつしろしろあとぐん)」との名称で一括して国の史跡に指定された。

古麓城→麦島城→松江城(八代城)については、八代城 - Wikipedia をご参照ください。


八代宮(1) 八代宮(2)

神社があったヾ(*´▽`*)ノ 神社好き〜としては、やっぱり参拝しておかないと♪
ぱっと見て真新しく、綺麗なお宮さんです。雰囲気はサラっとしてて、「八代宮」という名前から地元の氏神様みたいなものなのかな? と思いきや・・・

なんと、主祭神は懐良親王! さらに良成親王も配祀。
ここしばらく南北朝関連の本を読んでいることはブログでもお伝えしていましたが、八代も関連史跡があることをすっかり失念しておりました。南北朝時代最晩年の出来事で、あんまり書籍にも登場しませんからね・・・。
まったく予期せず、参拝することができて嬉しくなりました(´ω`*)

かいつまんで説明しますと・・・
南北朝時代、九州に南朝の征西府が置かれ、その「征西大将軍」に任命されたのが、後醍醐天皇の第十六皇子・懐良親王です。後継者となったのが、(後醍醐天皇の皇子)後村上天皇の皇子・良成親王。(つまり懐良親王にとって良成親王は甥っ子)

延元元年(1336/建武3年)、後醍醐天皇の行在所であった比叡山が足利尊氏兄弟の包囲に遭い、比叡山から吉野へと遷幸されました。その時に、わずか7〜8歳だった懐良親王が征西大将軍に任命され、鎮西に下向されたのです。
吉野から瀬戸内海を経て、まず鹿児島・谷山→熊本・菊池→福岡・太宰府で九州平定。のち、九州探題(今川了俊)に攻められ太宰府から高良山→菊池→宇土→八代と後退(この間に征西大将軍は懐良親王から良成親王へ譲位)。
『歴史鎮西志』によると明徳2年(1391)「征西将軍良成親王北軍と和す」とあり、講和を結んだ良成親王はその後、筑後矢部(現在の福岡県八女市矢部)に赴き南朝の再興を図ったとのことですが、晩年は不明です。

ちなみに良成親王に譲位した後の懐良親王は、やはり矢部で薨去したと伝えられていますが、詳細は同じく不明です。宮内庁は懐良親王御墓を八代市妙見町のものとしていますが、叔父である懐良親王が矢部で亡くなったのであれば、良成親王が矢部に向かったのも頷ける気がします。

八代宮(3) 八代宮(4)

八代宮は、建武中興十五社(けんむちゅうこうじゅうごしゃ)=建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社のひとつ。
建武中興十五社 - Wikipedia

明治維新以降、南朝の功労者を祀る神社の創建運動が各地で起こり、懐良親王の墓所のある八代の住民からも、懐良親王と良成親王を祀る神社を創建し、鎌倉宮・井伊谷宮と並ぶ官幣中社にしてほしいという請願が何度かなされた。(略)
これを請けて明治13年(1880)に太政官が熊本県に創立を命じ、懐良親王を祭神とし、良成親王を配祀する神社が八代宮の名で願い通りに造られることとなった。
八代宮 - Wikipediaより)


例祭は8月3日、春季祭は懐良親王御鎮座記念日である4月20日、秋季祭は良成親王御鎮座記念日である11月10日です。


撮影:スマホカメラ(Xperia Z SO-02E)

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posted by しう@SOTO at 23:16 | TrackBack(0) | 熊本
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