子どもの頃「島崎」という地に住んでいて、この辺り、金峰山一帯は学校行事などでも馴染みの場所でした。
が、実のところ霊巌洞および五百羅漢は「薄気味悪い」というイメージが強くて(^_^; 大人になってからも、あんまり惹かれるものはなかったのですが、久しぶりに立ち寄ってみようという気分になったのです。


いつぶりの訪問だか定かではないし、たぶん一人で来るのは初めて。駐車場から歩いて来たのですが、雲巌禅寺まで車で下りられた・・・。
・雲巌禅寺 - Wikipedia(霊巌寺)


雲巌禅寺の遠景。田畑が広がり、どなたが飼っているのかヤギもいました。
秋ならイチョウが映えただろうな〜。
仁王像(写真:右)は、1600年頃には既にあったんだそうです。


雲巌禅寺は曹洞宗の寺院で、山号は宝華山または岩殿山。九州西国十四番礼所でもあります。
南北朝時代、中国寧波より渡来した元(げん)の禅僧・東陵永璵(とうりょう えいよ)により建立されたと伝えられています。
本堂の手前にある石灯籠から流れる水は金峰山の伏流水だそうで、自由に汲むことができます。しまった、ペットボトル持って来るべきだった。
本堂に祀られているご本尊・観音菩薩は行基(ぎょうき)の作とされています。
行基が行脚中に、宇土で夜光を放つ不思議な丸木橋を発見。その霊木に像を刻んで奉納したと伝えられているそうです。(パンフレットより)
その観音像自体は、寺の建立以前から霊巌洞内に安置されていたと云われていて、かの世阿弥の謡曲「檜垣」により、平安朝の歌人・檜垣がこの観音像を日参したという故事でも知られているらしい。いやまったく存じませんでしたm(_ _;)m
・檜垣嫗(ひがきのおうな) - Wikipedia


雲巌禅寺(霊巌洞)といえば、剣聖・宮本武蔵が籠ったことで知られています。せっかくなので、ウン十年ぶりに入山。料金は大人200円、子ども100円。
資料館(というほどのものではないんですが・・・)には、宮本武蔵が巌流島で佐々木小次郎との決闘に使用したとされる木剣(レプリカ?)や、武蔵の自画像などが収蔵されています。
・宮本武蔵 - Wikipedia


写真:左=観音堂にお参りして、五百羅漢がずらりと控える山道へ。これらの石像は、江戸中期(武蔵没後150年くらい)に淵田屋儀平という商人が安永8年(1779)から24年がかりで奉納したものだそうです。


金峰山は活火山なので(わたしが子どもの頃は休火山と言われていましたが)、大小幾多の地震で、たくさんの石像の頭部が落ちてしまっています。


写真:左=延命地蔵尊
写真:右=閻魔洞


そしていよいよ、宮本武蔵が晩年に参籠し、二天一流の極意書「五輪書」を著した霊巌洞へ。


子どもの頃の印象で「薄気味悪い」と称しましたが、それは取りも直さず霊巌洞が「観光地化されていない」ということでもあります。この雰囲気は、ほぼ昔のままだといえます。


写真:右=東陵永璵が彫ったとされる「洞 巌 霊」(右から読む)の文字。今でもちゃんと見えます。


奥の院(霊巌洞)のご本尊・石体四面の馬頭観音像は格子の奥深くに安置されているそうです。そのお姿はパンフレットでしかお目にかかれません。
ちなみに重要文化財に指定されている東陵永璵の倚像は、熊本市立博物館に寄託されています。


写真:左=細川家の家老・沢村大学および戦国時代の武将・鹿子木寂心の逆修も彫られています。
(逆修とは、生前にあらかじめ自己の死後の冥福を祈って仏事を営むこと。)
写真:右=檜垣は、このお水を汲んでいたのでしょうか。今は滴る程度です。

*おまけ*個人的に表情がコミカルで親近感が湧いた石像さん(´ω`*)
ところで何と実はこの霊巌洞、その昔々、龍が棲んでいたとの伝説が!
以下、パンフレットより↓
いつの時代か定かでない遠い昔、観音様が異国から流れ着き、この岩洞に祀られた。
中国の僧・東陵永璵がこの霊地に一寺の建立を願った。沼地であった。
ある夜、夢枕に龍が現れ、「我は沼の主、願いを叶えよう。我は立ち去る。証拠の品として法螺貝と龍の鱗を残していく」と言った。(肥後国誌)
その証拠の品である法螺貝と龍の鱗が資料館に展示されています!


駐車場に戻る途中、黒岩展望所にも立ち寄りました。


写真:左=みかんで有名な河内町および有明海、雲仙普賢岳までもが一望できます。絶景かな!
写真:右=宮本武蔵像。武蔵は一度も負けたことがなかったということで、「勝ち運」を呼ぶそうな。
「神佛は尊し、されど神佛を頼まず。」

*おまけ*霊巌洞から車で約10分、天水(てんすい)からの眺めも素晴らしいですよ(´ω`*)
撮影:スマホカメラ(Xperia Z SO-02E)
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