


七城は美味しいお米「七城米」でも有名ですので、新米も味わいに来てくだはりまっせ♪
・七城地区コスモス情報 - 癒しの里きくち
撮影:Nikon COOLPIX P900
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【キャンピングカー放浪旅生活】と銘打っていながら、2016年は地元・熊本で活動しておりますm(_ _)m
タグ:花畑
当不動尊は下の城々主 下城氏の菩提寺たる護心寺の本尊にして、桂木にて尊体を刻み奉り尊像は五尺余(150cm)の等身像である。
堂尊の脇仏二童子の首根に大永巳年 大担那(おおだんな)下城上総介(かずさのすけ)経賢(つねかた)、仏師・了賢上人(りょうけんしょうにん)の銘があり、室町後期の作といえる。
この仏徳の利現あらたかなること余尊に越えさせ給い霊験不思議なり、別して疾病復しけり給うこと目のあたり明らかなりと伝えられる。
旧記をかかげると「文政五年正月十五日より不思議に遠方より参詣人 日に増進せり、不思議は二月一日より茶杯を煮沸し接待すること七・八人程を要し三月二十一日には凡そ四千余人集まれりと、集まるものこの不思議により諸国遠隣一心の方は諸病を治し幕・旗・鏡類 諸願成就 数を知らず。参詣人、山中に京をなし仏徳の不思議ながら無比古今無双の不思議明らかなり」。
旧国鉄宮原線跡地を利用した遊歩道旧国鉄宮原線遊歩道幸野川橋周回コースでは廃線跡のトンネルやアーチ橋が当時のまま残されており、当時の雰囲気を味わうことが出来ます。
自然の中で草花を探したり、野鳥のさえずりに耳に澄ましながら歩くのも醍醐味となっています。鉄筋の代わりに竹筋で組まれた幸野川橋梁(竹筋橋)など見物が多くあります。
隈部親永は、戦国時代末期に山鹿・菊池の二郡を支配していた肥後の国衆(国人)を代表する武将です。
天正15(1587)年、豊臣秀吉は九州出兵の際、彼に降伏した肥後の国衆50余人にひとまずはその支配地を保証し、肥後国主に任命した佐々成政には新しい土地制度となる検地を3年間行わないように指示しました。しかし、成政は検地を強行しようとしたため、親永が反発。これを抑えるため、成政が親永を攻めたのが一揆の始まりとなりました。
菊池の守山城(菊池本城)を佐々軍に落とされた親永は、息子の親泰が居城する山鹿の城村城(じょうむらじょう)で篭城します。その間、肥後国内の国衆たちが親永に同調して、成政居城の隈本城を包囲しました。この一揆を知った秀吉は激昂し、京都北山の大茶会を一日で取りやめて、西日本の大名たちに一揆の鎮圧を命じました。大群に囲まれた親永・親泰親子は必至に抵抗しましたが最終的に降伏し、天正16(1588)年、親永は柳川で、親泰は小倉で最期を遂げました。
一揆鎮圧後、秀吉から全国へ向けて刀狩令が発せられ、兵農分離が進められました。そして、肥後でも太閤検地が行われ、肥後の北半分は加藤清正に、南半分は小西行長に与えられました。
肥後国衆一揆は、肥後の中世の終わりを告げる重要な画期として位置づけられます。