2015年01月22日

浮島熊野坐神社(浮島神社)

所用で熊本市内まで行った帰りの道すがらカーナビを見たら、池に浮かぶ【浮島神社】を発見。実際は浮き島ではなく、半島のような形でした。

浮島神社(1) 浮島神社(説明板1)

正式名称は【浮島熊野坐(うきしまくまのます)神社】。

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【水郷 浮島さん】(案内板より)
湧水地の一角にある熊野座神社とその森が、まるで湖面に浮いているように映る姿から、この池一帯は「浮島さん」の愛称で人々に親しまれ、水の郷・嘉島町のシンボルとなっています。
池の面積は約3ヘクタールで、湧水量は1日約13万トン。水温は年間を通して約18度。魚類も豊富で、平成20年に国の「平成の名水百選」に選定されています。
夏は水面を渡る涼風が心地よく、秋口からは水鳥が飛来し、水面に見え隠れするすがたは水辺の風物詩となっています。
池の周辺は、四季折々の花々や水中植物を観察するにもよい所です。
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周囲は「浮島周辺水辺公園」として、駐車場とトイレも整備されています。そちら側から見ると浮島っぽく見えるんです。

おとーさんも子どもの頃によく釣りに来ていたらしいです。その昔は、この辺りは「やぶくら」でうっそうと茂った木々をかき分けて池のほとりまで歩いて行っていたそうです。

浮島神社(2) 浮島神社(説明板2)

「熊野坐神社」という名称から【熊野本宮大社】ゆかりの神社なんだろうなと思うのですが(熊野本宮大社は元々は熊野坐神社と号した)、熊野本宮大社の主祭神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)なのに対し、こちらのご祭神はイザナギ・イザナミです。

浮島神社(嘉島町)- Wikipediaより↓
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平安時代の長保3年(1001)、この地を治めていた井王家3代目・井王 三郎直久は、湿地帯のため五穀の収穫が思うようにいかないため、屋敷神である熊野坐神社に日夜祈っていた。ある夜、枕元に熊野の神が現れ、「屋敷の北側を掘れ!」との教えを授けられた。そこで、掘ってみると、みるみる周辺の水が集まり、大きな池になった。おかげで、湿地から水気がなくなり、作物の収穫が上がり、みな喜んだ。

その晩、黄金色に輝く大きな石が池に現れ、人々を驚かす。これを「兜石」と名付けた。「兜石」は、現在も池のどこかに沈んでいる。その日から、ひっきりなしに人々が見物に来て、にぎわった。「兜石」をご神体とし、屋敷神を神社へと移行し、井王三郎自身が神主となった。以来、千年、井王家が神職を担っている。
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なんと、現在の宮司さんは41代目らしい! えっ、じゃあ御朱印を書いてくださったあの方が41代目!?Σ(°ロ°;)

浮島神社(拝殿) 浮島神社(3)

今日は「戌の日」のため、ご近所さんらしきパパさんが「神社にお返しした方がいいのでしょうか?」と腹帯を持って来ていました。宮司さん?は、「おしめに作り直すなどして使ってください」とおっしゃってました。

それから、釣り具の「浮き」の形をしたお守りが可愛かった!「浮く」ということから、営業成績、病気がちな身体、成績などが浮上する、という意味が込められてるそうです。
また、宮司さんは自転車歴20年だそうで、Facebook友達と作った「自転車守り」も人気なんだとか。「何で自転車?」って不思議だったんですが納得しました(笑)

お人柄が伺えますね(´ω`*)

撮影:スマホカメラ(Xperia Z SO-02E)

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posted by しう@SOTO at 23:49 | TrackBack(0) | 熊本

2015年01月23日

阿蘇四社のひとつ 健軍神社

阿蘇神社(阿蘇市)、甲佐(こうさ)神社(甲佐町)、郡浦(こうのうら)神社(宇城市)とともに【阿蘇四社】とも称される【健軍(けんぐん)神社】は、熊本市内で最古の神社と言われています。
実は近くの高校に通っていたんですが、初めての参拝です・・・(´▽`;ゞ

健軍神社(1) 健軍神社(2)

肥後国 くまもとの歴史】より
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欽明天皇19年(558)、阿蘇大明神を尊敬していた肥後国司・藤原法昌は、毎月、古府中(飽田国府)より健軍の杉馬場を経て、阿蘇に到り、阿蘇宮参詣を行っていた。ある年の冬、参詣の時、大雪が降り、身の縮むような厳しい寒さで進退窮まり、暫くこの地の椎の木の下で雪の晴れるのを待った。
国司は心底、ここに阿蘇大明神を勧請(かんじょう/神霊を移して祀る)し、老弱の者の阿蘇宮参詣の労苦を救いたいと思った。ちょうどその時、一株の杉の下に3歳ばかりの童子が突然姿を現し、国司に向かって『汝 阿蘇大神を尊信し、二心なく厳寒積雪を厭わず、此処に来たり。その上、衆人遠途の労を憐み、大神を此処に勧請せんと願う。神明何ぞ感応せざらんや。宜しく此処に勧請すべし。阿蘇宮は皇城鎮座ため東に向かって建つ。因って当社は夷賊新羅鎮座のために西向きに社を建て、健軍(たけみや)と号すべし。』と託宣し、いつの間にか姿を消した。国司は多いに驚き、朝廷に奏上して一社を創建して健軍宮とし、神領を寄付した。
(肥後国誌より)
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御祭神の多くは阿蘇神社と同じですが、もともとは境内にある国造社の神、「火(肥)国造」の祖である健緒組(たけおくみ)と見る説もあるそうです。この健緒組=【健軍大神】であるらしい。

有力豪族・土蜘蛛が背いたので、天皇が健緒組に命じて討たせ、その後、健緒組は「火(肥)君(ひのきみ)」の姓を賜りました。【国造本紀】によれば崇神天皇朝に火国造に定められたとされています。

健軍神社(3) 健軍神社(さざれ石)

健軍神社 - Wikipediaより↓
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初め健軍宮(たけみやぐう)や健軍村竹宮(たけみや)と呼ばれ、または十二社大明神とも称せられて、健軍荘(たけみやしょう/現在の日赤病院周辺や小峰や新外、江津湖周辺の広い地域)の産土神社であった。
明治6年(1873)に郷社に列し、昭和以降「たけみや」が「けんぐん」と音読されるようになり、地域名も託麻郡健軍村から熊本市健軍町となった。
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健軍神社(雨宮神社)

【雨宮神社】
御祭神は雨宮大神。
以下、立て看板より抜粋↓ 分かりやすいように、少し書き換えています。
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花山院宇寛和年中(985〜986)、肥後の国 託麻郡 健軍村(現在の神水)に三つの島がありました。
松島という、その川中に一つの霊石あり。この石、雨の気配を感じれば水中より浮き出て、また晴れならば水中に沈み、その石の形色尋常ならず。
「雨宮大神と祭りたまえば降雨あるべき」との神話に基づき、勅命ありて、今丑成家が松島に祭ればそのききめありて天下潤雨す。
この地の不浄を禁止し、神水(かみず)と唱えて、いつからともなく村名となり神水(くわみず)と称え、その後、雨宮大神(御霊石)を健軍神社境内に遷座す。

慶長年中(1596〜1615)においては、早魃(かんばつ)のみぎり、加藤清正公みずから素足にて祈雨歌を一首神前に奉り給えばききめありて降雨ありと記してある。
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昨日の記事【浮島熊野坐神社(浮島神社)】の後に健軍神社に参拝したのですが、その途中に【雨宮神社】があったので、もしかしたら霊石がもともとあった場所なのかも知れないと思いネットで調べてみたら、違いました(^_^;。
正式名は【西無田(西牟田/にしむた)雨宮神社】で、天文7年(1532)に浮島熊野座神社の分霊として建てられたのだそうです。

健軍神社(美和神社)

【美和神社】
御祭神は大物主大神・三穂津姫命・事代主命・猿田彦大神。
以下、パンフレットより抜粋↓
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景行天皇の御代、大和の国にて水疱瘡が流行し命を落とす者も多く(肥後の国でも流行)、病気平癒の神として大物主神を祀りました。
病気平癒祈願をするとき、美和神社の大前に疱瘡だご(疱瘡に似せた団子)をお供えし、拝殿の前にある疱瘡石(疱瘡に似た石/写真左下)を撫でて祈願していたそうです。
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国造神社、日吉神社、天社神社もご鎮座。

駐車場からそのまま境内に入ったので、荘厳な楼門と、楼門がよく見えるようにと低く作られている鳥居、また童子が現れたという石(石立大神)を見ずに帰って来てしまったのが心残りです(´・ω・`)
また改めて参拝しなきゃ。

撮影:スマホカメラ(Xperia Z SO-02E)

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タグ:神社
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2015年01月25日

春のきざし

小鳥のシルエット

熊本・菊池では、早くもヒバリの鳴き声が聞こえてきました。
朝には、よくクルマの屋根に野鳥が止まったりしてます。近くの枝から枝へ軽やかに飛び回り、メジロが椿の蜜を吸っている様子を、窓越しに微笑ましく見守っています(´ω`*)

2009/03/14 2009/03/14

こちらは2009年3月、以前の自宅のお庭です。毎日たくさんの野鳥が来ました。マリリンはよく縁側でくつろいでいましたが、野鳥に吠えたり追い出すような素振りはまったくなかったです。
(左の写真の右上、ヒヨドリが餌場に止まってます♪)
部屋の中にいると縁側まで野鳥が来てましたが(ミカンとか置いてたので)、見てるだけでしたね。

ちなみに、この頃のマリリンはふくよかさMAXでした(´▽`;) 10kg超えてたもん。

福寿草 JA植木まつり2015

写真:左=山小屋の庭に福寿草が咲き始めましたヾ(*´▽`*)ノ.。・:*:・°`☆、。・:*:・°`

写真:右=【JA植木まつり】がカントリーパークにて開催中。初日に見に行くのは毎年恒例? 熊本に春の到来を告げるイベントらしく、快晴に恵まれて人出も多かったです。

わたしのお目当ては植木関連よりも雑貨なんですが(笑)、お気に入りの業者さんが昨年から出店しなくなってしまったのがとても残念です。
山帰来(さんきらい/サルトリイバラ)とかツルウメモドキとか朽ち木とか、わたしの創作物にもってこいの材料を多く取り扱っていたのになぁ(´・ω・`)

山に取りに行けばいいんですが、探しまわる手間ひまやガソリン代を考えたら買った方が安いし早いんですよね(´▽`;ゞ

撮影:スマホカメラ(Xperia Z SO-02E)

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posted by しう@SOTO at 23:25 | TrackBack(0) | 日記

2015年01月26日

珍しい二層式の橋・馬見原橋

馬見原橋(1) 馬見原橋(説明板)

幣立神宮に新しいお札をいただきに参った帰り道、二層式のユニークな形をした【馬見原(まみはら)橋】に立ち寄りました。山都町(やまとちょう/旧・蘇陽町)にあります。

馬見原は、その昔は日向往還道の宿場町として栄えていたそうですが、商店街も閉まっているところが多いです。
ただ寂れてるもののゴーストタウン的な印象はなく、道路を石畳にしてあるなど雰囲気はいい感じ。

馬見原橋(2) 馬見原橋(3)

【くまもとアートポリス】計画のひとつとして、平成7年7月30日竣工。
長さ38.25m、上部の幅員が4.8m、下部が6.75m。上部は片側一車線の車道と歩道、下部は弓形の緩やかな傾斜の板張りの歩道で、中央部に五ヶ瀬川の流れを眺めることができる直径3mと2.4mの2つの穴があります。(蘇陽町商工会HPより

馬見原橋(五ヶ瀬川) 馬見原橋(地図)

橋の向こう側には、夫婦岩。その先には生目神社が鎮座しています。
五ヶ瀬川流域には神代・日本神話の舞台となった場所が数多くあるので、ゆっくり時間をかけて見て廻りたいところです。

余談ですが馬見原公民館前に【九州のへそ基石】というモニュメントが建っています。
町の西に降る雨は緑川を流れ有明海から東シナ海に注ぎ、東に降る雨は五ヶ瀬川を流れ太平洋に注ぎます。つまり、この地が九州の分水嶺となり九州のほぼ中央に位置するので、この地を「九州のへそ」としたようです。(【九州旅ネット】より)

撮影:スマホカメラ(Xperia Z SO-02E)

*参照*
橋に願いを - 集い、語らう憩いの広場 馬見原橋】(asahi.com)

*関連する過去記事*
【幣立神宮】は既に紹介済みと思ってたら、文章を書いてなかった・・・すみません(´д`|||)
・2011年03月16日【写真で綴る幣立神宮


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posted by しう@SOTO at 21:22 | TrackBack(0) | 熊本

2015年01月28日

「やっと会えた」宗像大社

旅から戻る帰路、関門橋を渡って高速道を降り、【宗像(むなかた)大社】へ参拝しました。ちょうど「おついたち」、12月1日のことです。
お隣の県ということもあり、参拝する機会はいつでもあると思いながら延び延びになってて、今ごろ初参拝・・・。すぐ近くの道の駅【むなかた】に2度も停泊してるのに・・・。

宗像大社(案内地図) 宗像大社(大鳥居)

日本各地に七千余りある宗像神社・厳島神社および宗像三女神を祀る神社の総本社。全国の弁天様の総本宮ともいえます。裏伊勢と称されることも。
宗像大社 - Wikipediaより)

宗像大社(心字池) 宗像大社(鳥居)

宗像大社は沖ノ島の沖津宮(おきつぐう)、筑前大島の中津宮(なかつぐう)、宗像市田島の辺津宮(へつぐう)の三社の総称ですが、現在では辺津宮のみを指す場合も多いそうです。

ご祭神は、
・沖津宮 : 田心姫神(たごりひめのかみ)
・中津宮 : 湍津姫神(たぎつひめのかみ)
・辺津宮 : 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
この三柱の神を【宗像三女神(宗像三神)】と総称します。

宗像大社は、またの名を「道主貴(みちぬしのむち)」といい、「貴(むち)」とは最も高貴な神に贈られる尊称で、【日本書紀】には宗像三女神が「道主貴(みちぬしのむち)」、すなわち国民のあらゆる道をお導きになる最も尊い神として崇敬を受けたことが記されています。
公式サイトより)

古くから海の交通安全の神として信仰されていますが、現在では海上に限らず陸上でも交通安全の神として信仰を集めていて、クルマに着ける交通安全のお守りは宗像大社が発祥なんだそうです!

宗像大社(本殿) 宗像大社(仮拝殿)

本殿・拝殿は国の重要文化財。本殿は天正6年(1578)再建、拝殿は天正18年(1590)再建。
左の写真は、横から撮らせていただきました。わたしが参拝した1週間後にあたる12月8・9日、実に43年ぶりとなる本殿遷座祭が斎行されるとのことで、この日はまだ仮拝殿(右の写真)でした。

神前で手を合わせていたら、後から来た数名の中高年グループに押しのけられて目が点。ど真ん中にいたわけでもないのに、神前でこんなことする人がいるんだ。ひょっとして神様に嫌われてるのかなとブルーになりつつも気を取り直して再び手を合わせたら、タイトルの「やっと会えた」という声が聞こえたんです♪ 後ろのおじさまの声でしたけど(笑)
こんな偶々のタイミングでも、嬉しく感じるものです(*´▽`*)

宗像大社(ご神木) 宗像大社(ご神木)

ご神木の楢(ナラ)の木。この長く伸びる枝の下で、しばらくボ〜っとさせていただきました。何となく、あたたかな癒しの【氣】を感じたような気がしました(*´Д`*)

宗像大社(松尾神社) 宗像大社(案内板)

写真:左=ご神木の脇から【鎮守の杜の道】に入ってすぐの左側に2つのお社があったのですが、公式サイトにもWikipediaにも詳細が書いてなかったので不明です。左のお社は【松尾神社】と読めます。
写真:右=第二宮・第三宮の案内板。

宗像大社(第三宮) 宗像大社(第二宮)

写真:右=沖津宮の田心姫神を祀る第二宮(ていにぐう)、写真:左=中津宮の湍津姫神を祀る第三宮(ていさんぐう)。
伊勢神宮の第60回式年遷宮(昭和48年)に際し、特別に下賜された別宮の古殿を移築・再建したものだそうです。

宗像大社(高宮への悠久の道) 宗像大社(高宮祭場 案内板)

写真:左=高宮祭場へつづく「悠久の道」。

宗像大社(高宮祭場) 宗像大社(高宮祭場)

宗像三女神の降臨地と伝えられる高宮祭場。すっと真っすぐにそびえる木々に囲まれ、この日は曇りであまり明るくなかったにも関わらず神聖で清浄な空気に包まれていました。
ここで春・秋の大祭や高宮神奈備祭(秋季大祭を締め括る祭典)などが執り行われます。公式サイトに掲載されている写真がとっても幻想的で、一度はこの目で見てみたい!


余談ですが沖津宮が祀られている沖ノ島は、島全体が御神体のため現在でも女人禁制で、男性でも上陸前には必ず禊(みそぎ)を行なわなければならないそうです。
発掘調査により、4・5世紀〜9世紀までの石舞台や古代装飾品などの祭祀遺物が大量に発見されており、なんと八万点も国宝に指定されています。このことから俗に「海の正倉院」と呼ばれているそうです。

撮影:Nikon D5100

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タグ:宗像大社
posted by しう@SOTO at 23:32 | TrackBack(0) | 福岡

2015年01月29日

マリリン、四十九日。

四十九日 2015/01/28の日暈

今日はマリリンの四十九日でした(これを書いているのは翌・30日ですが)。
動物界にも初七日とか四十九日とかあるのか、そもそもニンゲンが考え出した宗教観の真偽も定かじゃないよな〜ってことはこの際、置いといて。
何をしたらいいのか分からないけど、亡くなった日の夜と同じように、一晩中あかりを灯しておきました。

四十九日までにはお墓になるものや埋めるためのものなどを揃えなきゃ、って焦った日もあったけど、ふと「マリリンは、おねーちゃんが納得するんだったら何でもいいよ」って言うんじゃないかなぁ〜と、肩の力を抜いてぼちぼちにしようと思うようになりました。

でも今日、とりあえず石塔だけは見つかったので、よかったです。しかも予想よりずっと安かったし(´▽`ゞ
お墓は、山小屋の庭の一角に作る予定です。

2005/08/11竜飛岬にて

子どものころ、亡くなった日や葬儀・法要などのときに雨が降るのは天寿をまっとうした、いいことなんだと教えてもらって、それを未だに信じています。
今日もしとしとと雨が降ったことに、少し安心しました。

ありがとう。

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posted by しう@SOTO at 14:06 | TrackBack(0) | 愛犬マリリン

2015年01月31日

宇土城跡と轟水源

さて今日も、どこに行こうか目的地が曖昧なままドライブスタート。おとーさんの大昔の記憶を頼りに、宇土市にある【轟水源】に行ってみようという事になりました。

宇土高校のすぐ近く、宇土城趾の裏くらいだったというのですが・・・カーナビでは、宇土高校と宇土城趾は1kmくらい離れてる???
とりあえず宇土高校を目指すと、【←宇土城跡】の看板が。あれ? 隣は墓地だし、カーナビと場所が違うんだけど???

梅の花 九州自然歩道(宇土城跡)

もう梅の花が咲いてました(*´▽`*)。・。・°★・。・。☆・°・。・°
写真:右=あとになって気づいた九州自然歩道の案内板。よーく見て〜。

宇土城跡(1) 宇土城跡(本の丸)

石段を登ると、そこは芝生広場(城山公園)になってました。

宇土城跡(小西行長像) 宇土城跡(小西行長 説明板)

小西行長の銅像。ここは元々【本丸】だったらしい。

宇土城跡からの眺め 近世宇土城跡 説明板

本丸@城山公園からの眺め。昔は海が見えたのでしょうが、埋め立てが進んだ現在となっては、このとおり。

そして看板を読んでみると、宇土城には「近世」と「中世」があった!Σ(°ロ°;)
「近世」宇土城の城主=小西行長。
「中世」宇土古城の城主=宇土氏。
ここは「近世」の方。天正17年(1589)頃で、もう「近世」なのね・・・。

宇土城の天守は加藤清正によって熊本城へ移築され【宇土櫓】となったというのは有名なハナシですが、昭和2年(1927)に熊本城宇土櫓を解体修理した調査の際には移築の痕跡が見られず、真偽が定かではないそうです。
宇土城 - Wikipediaより)

近世宇土城跡 説明板 近世宇土城跡 復元図

本丸を一見して「小西行長の居城がこんなに小さいものだったとは」と驚いたけど、案内板を見たらかなり立派な城塞だった。

以下、説明板より↓
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キリシタン大名・小西行長が築城した近世城郭である。通称「城山」と呼ばれる小高い丘の最高位(標高約16m)に内堀で囲まれた本丸が位置し、二の丸や三の丸がそれぞれ本丸西側と南側および東側に配置されている。これらを大規模な外堀が取り囲むという堅固な縄張りで、外堀まで含めた城域は南北約500m、東西約550m、面積は約20万平方メートルと広大である。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで敗れた行長が処刑された後、肥後一円を治めた加藤清正は、自身の隠居所とするため大規模に改修を行った。しかし隠居することなく慶長16年(1611)に死去し、翌年、幕命により破却された。
さらに寛永14年(1637)の天草・島原の乱後も徹底的に破壊されたため、往時の姿はとどめていない。

昭和40年代、県立宇土高等学校社会部による発掘調査が行われ、石垣などの城郭遺構が検出された。また、本丸跡の公園整備工事に伴う発掘調査(昭和53〜57年)が実施され、新事実が次々と明らかになった。
調査の結果、当初「小西時代」と考えられてきた石垣や門礎(もんそ)、排水溝などの城郭遺構(上層期遺構)の、さらに1.5〜2mほど地下から、石塁や礎石建物跡などの下層期遺構が発見された。下層期遺構は「小西時代」、上層期遺構は「加藤時代」の城郭遺構に相当するとみられ、宇土城趾の変遷を考えるうえで大きな成果となった。

出土品は、中国製陶磁器(青磁、白磁、染付)、国産陶磁器(備前焼、瀬戸焼、唐津焼)、銃弾、瓦などがある。
なお、本丸周辺では大砲の一部や「慶長十三年銘」の滴水瓦が採集されている。
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「中世」宇土古城跡(国指定史跡)は、歴史公園「史跡宇土城跡」として整備され、建物跡・横堀・城門など一部の遺構が復元されているらしく、カーナビに載ってたのはこっち。しまった、カーナビ通りにいけばよかったな。菊池一族とも縁があるし・・・。
またの機会にゆっくり来るとして、今日はスルー(´▽`;)


西岡神宮(1) 西岡神宮(2)

轟水源に向かう途中に西岡神宮(リンク先は宇土市HP)があったので立ち寄って参拝。

公式サイトは空白ページになってました(^x^;
以下↓西岡神宮 - Wikipediaより抜粋。
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奈良時代に創建された、約1,300年の社歴を有する古社である。

社伝によれば、和銅6年(713)、元明天皇の勅願により宇土地域の総鎮護として中原(壇原)に創建された。はじめは春日大神と住吉大神の勧請であったが、承久3年(1048)、関白 藤原道隆により八幡宮を合わせて祀ったので三宮大明神と称することとなり、現在でも「三宮さん」の名で親しまれている。

中世には菊池氏、宇土氏、名和氏ら代々の領主の尊崇を受けたが、天正16年(1588)に小西行長の社殿焼き討ちに遭い、ご神体はしばらく山中に隠し祀られた。

慶長6年(1601)、加藤清正により現在地に再興され、後の肥後藩主・細川氏代々の崇拝、保護を受け現在に至る。
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ちなみに九曜紋は細川家の家紋でもあります。


轟水源(1) 轟水源(説明板)

ようやく、お目当ての轟水源に到着です!ヾ(*´▽`*)ノ お水を汲む場所もありました。
キャンピングカー生活中の飲料水は、ほぼ100%湧水です♪

↓案内板より
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轟水源は宇土市の南西に位置し、宇土城跡より西へ約1km。昔から肥後三名水のひとつとして知られ、絶えることなく清水が湧き出しています。
この水源を導水して総延長5kmにわたる水道が轟泉水道(ごうせんすいどう)で、現在使われている上水道としては日本最古のものです。
これは初代宇土藩主 細川行孝公によって発案、敷設されたもので、石管を用いた地下水道です。現在も多くの人々の飲料水に利用されています。
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轟水源(2) 轟水源(3)

*参照*
轟水源と轟泉水道(宇土市HP)
宇土市デジタルミュージアム

九州自然歩道の案内図に載ってた【栗崎の天神樟】、地図がアバウトすぎて辿り着けなかった・・・。
城ノ越古墳というのもあるようだし、また改めて宇土古城も見に来たい。ただ道が狭いのでキャンピングカーだとちょっと難しいかも・・・。

撮影:スマホカメラ(Xperia Z SO-02E)

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