数年前にもブログに紹介しようとして写真のみアップしておいたのですが、そのままになっていた『
鞠智(きくち)城』のご紹介です(^_^;
(カテゴリは『熊本県菊池市』になってますが、正しくは山鹿市菊鹿町です。)
鞠智城は、東アジア情勢が緊迫した7世紀後半(約1300年前)に、大和朝廷(政権)が築いた古代山城です。
663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、唐・新羅の連合軍に大敗した大和朝廷(政権)が日本列島への侵攻に備え西日本各地に築いた城の一つで、九州を統治していた大宰府やそれを守るための大野城・基肄(きい)城に武器・食糧を補給する支援基地でした。
『
続日本紀(しょくにほんぎ)』など国の歴史書にも記載のある全国有数の重要遺跡として、平成16年2月27日に国史跡に指定されました。
(
公式サイトより)
写真:八角形建造物・鞠智城【鼓楼(ころう)】と、イメージキャラクターの【ころう】君
菊池は、もともとは「くくち」と言っていたそうですが公式サイトでは「鞠智(きくち)城」とルビがふられています。
この辺りを繙(ひもと)くと、また話しが広がってややこしくなるのでここで割愛。
*参照*
【
論文紹介|古代のキクチ一族の謎|渡来人研究会】(歴史ジャーナリスト/菊池秀夫)
【
菊池家の祖先】(菊池家十三代惣領 菊池次郎武重 末裔のHP)

写真(左)鼓楼の説明板 (右)鞠智城周辺の地図
鼓楼の高さは15.9m。内部は柱だらけ!階段がなく、梯子を利用していたようです。
ふだん建物内への立ち入りはできませんが、ゴールデンウィークのイベント開催時には二階部分まで足場が組まれ、登ることが出来るそうです。
文武天皇時代の修築記事(698年)で初めてその名が正史に登場するのですが、築城年は記載がなく現在も確定されていません。
城の面積は内城55ha、外縁地区65haに及びます。
(
鞠智城 - Wikipedia の解説より)

写真(左)校倉(あぜくら)造りの米倉 (右)
防人(さきもり)たちの兵舎。1棟あたり50人くらいが寝泊まりしていたらしい。
軒丸瓦には蓮の花をモチーフにした模様が施されていて、百済の様式を受け継いでいると見られています。

板倉(武器を保管する倉庫)

写真(左)長者山展望広場休憩所から灰塚展望所へ続く道 (右)灰塚展望所

灰塚展望所からの360度パノラマ。不動岩、鞍岳、八方ヶ岳、さらに雲仙普賢岳まで見えました!

『温故創生館』(資料館)も見学。入館は無料です。
(左)鞠智城一帯のジオラマ
(右)館内には【鞠智城】【米倉】【兵舎】の模型も展示されています

【鞠智城の歴史】【鞠智城の造り】【鞠智城での暮らし】【古代山城】といったテーマごとに、パネルや写真、出土遺物、復元模型などを展示しています。
映像解説室でのビデオ上映もあり。
【歴史公園鞠智城(14分)】【古代の森ロマンルート(15分)】【九州の古代山城(17分)】【鞠智城物語 防人たちの唄(30分/三池崇史 監督)】【平和への誓約(うけい)(午後3時から/43分:『山鹿灯籠』と『松尾敬宇とその母』の2部構成/三池崇史 監督)】

(左)古代山城では唯一、木簡が出土。
(右)青銅製の百済系菩薩立像。姿形の特徴から、7世紀半ば〜後期のものと考えられ、百済人貴族が持ち込んだと推定されています。

『温故創生館』の2階は休憩所になっています。兵馬俑と銅車馬の実寸大レプリカもあり。
『温故創生館』9:30〜17:15(入館は16:45まで)
休館:月曜日(祝祭日の場合は翌日)、12月25日〜1月4日

写真(左)温故創生之碑 (右)温故創生之碑の説明書き
中央に防人、前面に防人の妻と子、西側に築城を指導したといわれる百済(くだら)の貴族、東側に八方ヶ岳に祈りを捧げる巫女、北側には一対の鳳凰が立っています。
撮影:Nikon D60
・
KIBS「鞠智城歴史ロマン」 - YouTube
大和朝廷が7世紀後半に築いた山城「鞠智城」。
この古代山城から平成20年10月、銅製の「百済系菩薩立像」が出土した。
なぜ、百済の仏像がこの山城から出土したのか?
番組では国内で初めて出土した百済系菩薩立像の歴史ロマンに迫る!大きな地図で見る*
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posted by しう@SOTO at 23:09
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熊本県菊池市